pas à pas
前に進もう…少しずつ。少しずつ。
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漁っているといってもネットのPDFだとどうしても見辛いし、日が昇ったら図書館に出向いてちゃんと冊子をめくるつもりでいるので、とりあえずパラパラ見ているだけ。
17世紀のイタリアで書かれたということで、最近見つかった筆者不詳の楽譜集。それからメルセンヌのHarmonie universelle (1636)の2つをめくるだけでこんな時間。でもネットで誰でもこうした資料を見られることは本当にありがたいことです。存分に生かさなければなりません。
どちらの楽譜も歌+通奏低音の楽譜に右手が書かれているものがあり、見ていたのですが、現代の『通奏低音』という演奏方法は、はたして本当にオーセンティックか、疑問の余地ありまくりです。
僕が習っていた通奏低音、それから多くの人が弾いている通奏低音は基本的に右手の一番上の声部が、アンサンブルしている歌や楽器の音と同度にならないように避けています。
しかし、見ていた二つの楽譜では基本的にまず4声体で書かれて、右手の一番上声部は歌を基本的に全部なぞっていて、歌が細かい装飾的な音符を弾く時のみ、主となる音を弾いて伸ばしています。内声は対位法で編まれており、バスにも装飾された形跡があります。
最近ではコレッリのヴァイオリンソナタにも右手の書かれた楽譜が見つかりましたが、それも基本4声体で、頻繁にヴァイオリンと同度を重ねています。(時には超えていることも!)
なんともびっくりすることだらけです。どうやら20世紀の間に学者の間ではこれらの存在は知られていたものの、所謂正統派と呼ばれている演奏家達によって、諸事情により葬り去られたらしいという話を、以前FBで目にしました。
現代のピアノ伴奏は、ほとんど同度をピアノが重ねているので、そこと反発することが「古楽運動」の一端だったのかもしれません。本当の理由はわかりませんが…
でも彼らの出した答えのすべてが正しいわけでもないし、後から資料が見つかることだってあるでしょう。僕らはまずこれらの楽譜を実践して、学んでいくことから始めなければ。
もちろん演奏するのは現代の人たちで、聴く人も現代の人たちです。
違和感もあることがあるだろうし、楽器によってはバランスを聞いて避けたほうが良いこともあるかもしれません。でも、そういった違和感だったり、「バランスを聴く」という感覚自体が、現代の感覚であり、17世紀当時とは真逆の趣味の演奏をしているかもしれないということだって、わかっておかなければならないと思うのです。
僕らは冷静に、科学的に事実をみることと、心のこもったパフォーマンスをすることを分けなければなりません。
それは学者や演奏家がこれまで研究して残してくれた楽譜や、楽器、文献の数々に触れることへの感謝をもち、引き継いでいく責任でもあると思うのです。
なんと僕の不勉強なことか…勉強したいこと、しなければいけないことの膨大さに愕然としてしまいます。
でも、前の記事に書いた通り、音楽への愛があれば特に調べることや勉強することが苦になることはありません。むしろこういったものに触れられることへの喜びや楽しさのほうが強いです。
特にメルセンヌを見ていて思うのですが、彼は数学、哲学、音楽…etc.すごい知識量です。
昔音楽をやっていた人たちは他の学問にもかなり精通していたのでしょう。
僕なんて、音楽のことだけでも全く手が追い付かないのに(-_-;)
自分に出来ることを地道に調べていくしかないですね!
ドラえもんが『翻訳こんにゃく』くれれば早いだろうに(笑)
だからこそ、学べる者、演奏する者には真剣に考える義務があるなと。
一切の妥協を排除して、真摯に真剣に。
楽器を手に出来ること、楽譜を手に出来ること。
チェンバロが使われていた時代にしてみれば、まさに限られた、ごく一部の特権階級の贅沢。
それ以外の人からしてみれば、きっとリュリもコレッリもバッハも「誰ですか?」くらいな印象しかないに違いない。
それを考えれば今はネットで楽譜見放題、出版譜もピンキリではあるけれどあふれかえっているし、電子楽器やキットなどを含めれば、手に入らない楽器なんてほぼ無い。
もちろんお金あっての話だけれど、それでも日本では小学校でリコーダーをやるし、所謂楽器に触れないまま死ぬことなんて、ほぼほぼ無い。
それだけに音楽をやれることに対して喜びや大切さを感じにくくなっているんだな…。例え音大生であってもやっぱりありがたみが薄れている、自分は果たして本当に音楽を大切にしてきたかといわれると…正直あまり自信はない。
練習の1音だって本当は愛しんで、大事に美しい音を出さなきゃいけない。
日本から1度しか出たことのないがこういうことを言うのも、なんだか薄っぺらい気がして嫌だけれど、テレビや新聞で目に入る表面的な情報だけでも、「明日の自分の命があるかどうかさえ分からない」国で生きている人たちが沢山いることくらいは知っている。
昨日17日は阪神淡路大震災が起こった日。東日本大震災が起こったのだってすごく最近だ。そうやって日本でだって災害で命を落とす人、生き残っても家がなくなっている人が沢山いる。
そんな世界で、僕は音楽を演奏するし、勉強もしている。
それがどんなに幸せなことか、贅沢なことか。
音楽を演奏するのが誰か他人のためだなんてとても言えない。そんなこと言っちゃうこと自体、その他人のことを見下してる気がするし、音楽自体に自分の考えや祈りを押し付けているようで傲慢な気がするから。
せめて美しい音、愛のある音を出すことは忘れないでいたい。せめて音楽のことを真剣に、真摯に考え、演奏しよう。もしかすると、飛び切り幸運なことが起こって、誰かが涙を流してくれるかもしれない、誰かの心に寄り添うことが出来るかもしれない。
でもきっと、自分にあるものを総動員して、知識も体力も技術も精神力も、全部全部絞りっ切ってやっと出した音に付随してくる、小さなご褒美で、それを求めて演奏することに、おそらく意味はないだろう。
自分と音楽と対話を繰り返しながら、地道にやっていくしかない。
忙しくても、音楽をやれている喜びや幸せは感じていたい。それを感じることだって苦しいことだということもわかっているけれど、それでも今日も明日も音楽とともに生きていこう。
こんなこと書いたって、まだまだペーペーの僕には悩むことしかできないなあ…でも悩もう。答えは一生かかっても出ないかもしれないけれど。今生きている世界で、他の誰でもない自分が音楽を演奏する意味は、きっとあると信じて。
勉強しよう!
もうすぐ卒業。
学校を出れば、先生とか学校とは関係がなくなって、ある意味自由な身になる。
逆に今まで『芸大所属の…』という言葉で良い意味でも悪い意味でも守られていたものはなくなる。自分がすべてのことに対して責任を取ることになる。
今まではどちらかというと広く浅く、沢山の曲や作曲家に触れるという感じの勉強の仕方だったし、毎週ある授業やレッスンに向けて、どこか『大雑把』という感じがあった。
それはそれで意味があったことだし、手を抜いてやっていたわけでもない。音楽に愛情を欠いていたつもりもない。
もちろん知らないことはまだまでいっぱいあるし、広く色々知って行くことはこれからも大事なことの1つだと思う。
でもその一方で1つの曲、1人の作曲家、あるいは1つの音に対して向かい合うことにはなかなか時間が裂けなかったような気がしてならない。
この1年はきっと色々と変わる年で、留学もしたいと思っているから忙しいと思う。だからこそ、じっくりと音楽と向き合う気持ちは大切にしたい。どんな音にも愛情を持って取り組む。特に今年はそれが目標。言葉でいうのは簡単だけど、楽器のタッチ、曲の分析、資料集め…もちろんテクニック的な練習も!表面的なことだけでも沢山。さらに、頭に浮かぶイメージや精神的なこと、個人的な問題はまた別の話。とても大変なこと。
広くやるからこそ、深く勉強するきっかけが掴めるけど、それだけではどこかフワフワしたものができあがってしまうし、逆に限られた範囲を深くやっているだけだと、深くやっている「つもり」で、どこか乱暴な、スケールの小さい演奏になってしまう。
どっちも大事な勉強。でも今の自分にとって大事なのは1音に対する愛情を深めること。焦らずにじっくり取り組んでいきたい。
音楽への愛にもっともっと溢れた、1年にしたいと思う。
頭を整理するためにざっと思いついたまま書きました。読みづらくってごめんなさい(>_<)
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プロフィール
4歳からピアノを始める。
松山南高等学校在学中、チェンバロに出会い転向する。
東京芸術大学音楽学部器楽科チェンバロ専攻卒業。在学中、2年次よりバロックダンス部の部長を務める。
2015年より渡仏し、リヨン国立高等音楽院CNSMDLのチェンバロ専攻学士課程に在学。2018年6月に演奏家ディプロマDNSPMを取得した。
2018年9月より、同校のクラヴサン―通奏低音専攻修士課程、及び古楽ハープ学士課程在学。
ピアノを冨永啓子氏、チェンバロを石川陽子、大塚直哉、西山まりえ、Y.レヒシュタイナー、J-M.エイム、D.ベルナーの各氏に師事。
古楽ハープを西山まりえ、A.モイヨンの各氏に師事。
2014年3月に初のソロリサイタルを萬翠荘(愛媛)にて開催。
2015年3月には『ハープ祭り2015(西山まりえ氏主宰)』において、『プチっとリサイタル』に選出され、ゴシックハープで出演する。
東京芸大在学中より様々なアンサンブルとも共演し、ソロ、通奏低音共に研鑽を積んでいる。
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